昭和49年05月21日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられる様になった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事にそむかぬよう、良く守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 「金光大神の言う事にそむかぬ様に、良く守って信心せよ」と言う事は、どう云う事だろうかと、沢山の御教えを下さってあるから、その御教えをよく守ると言う、言えばそれまでですけれども、私はギリギリの所、この金光大神の御信心は、人が助かる事さえ出来ればとこう仰しゃっておられる。「此方は人が助かる事さえ出来れば結構である」と云う事はどう云う事かと言うと、金光大神その人が、自分自身が助からなければならない事を、私は痛感されたのではないかと思うですね。
 金光大神ご自身が、たくさんの人が助かる。いよいよ助かる事の為には、いよいよ自分が力を頂きなさらなければならないと云う事を、痛感されたのではないかと私は思うです。是を私自分自身の信心から推して、そう言うふうに感じるんですけれども、本当にさまざまな難儀の人の姿様相というものを見るに付け、または聞くに付け思うのです。どうぞああ言う人達が助かって下さるととか、また御取次さして頂く度びんに、本当に助かってもらわねばと思うんです。
 その思う度びんに切に思う事は、私がより力を受けなければならないなと云う事は、私が愈々助からなければならないなと云う事です。ですから私がそう感じるから、私の信心を通して、金光大神が言うておられる「此方は人が助かる事さえ出来れば」と言うのはそう言う意味だと思うのです。段々人の難儀が自分の難儀の様に感じられる。世の中の様々な難儀が、愈々黙って見てはおられない。
 そこに祈りがある。祈らなければおられんのである。人の事を祈り、または天下国家の事を祈らしてもらわなければおられんのである。それが信心の言わば成長だと思うんですけれども、そう祈らせて頂けれる信心が育って来れば来る程にです。愈々自分が助からなければならないなと思う事切です。皆さんの場合どうでしょう。なら身近な自分の家庭なら家庭と云う事を思いましてもです。例えば子供なら子供の姿を見てから、そう云う事では子供の幸せと云う事を感じられない。
 そこで親は子供の助かりを願う。どうぞ子供が立ち行きます様に、助かります様に、真の、言うならば生き方をさせて頂きます様にと願う。それを真剣に祈りに祈り、願いに願っておってご覧なさい。もう自分の祈りと云うものの力と云うか、願う力と云うかを感じて来る様になります。感じれば、自分がもっともっと親自身が助からなければならない事になって来るです。
 私は思うのですけれども、ここには毎日言わば沢山の人がお参りをして来るんですけれど、様々な難儀を持っておかげを頂きたい。どうぞ此の事を御取次して下さい。と言うて参って来るんですけれども、本当に自分自身が助かりたいと願ってくる信心、または信心者でなからなければ、合楽の有難さは判らないと思うですね。おかげを受けなければならんからお参りをしとる段階からですね。
 自分自身が助からなければならんとして参って来たら、もう合楽はもう外されんのであり、親先生は大変なお方だと云う事になって来るんです。なぜって私が助かって行っておる事を皆さんに聞いてもらうんですから。ここでは金光大神は神様からも氏子からもの両方からの恩人だと言うておられますけれどもです。ここで私自身が助からなければならない。だから、助かって行っておる様子を皆さんに聞いてもらう。
 皆さんも、皆さん自身が助からなければならないとして、私が助かる以外にはないんだという信心で進んで見えるならば、もう合楽での皆毎日聞いて頂いておる話はもう、頂かなければおられんのであり、もう合楽とは切っても切れん仲と云う物はそこからしか生まれて来んです。どんなにです。それこそ素晴らしい奇跡的なおかげを頂いてもです。そのおかげはね、段々縁が薄なるです。
 だからそう言うおかげを受けたからとして、言うならばどんどん合楽の教会が賑わうと言うなら、それは何処迄も枯れ木も山の賑わいです。けれどもね、本当に皆さん一人一人が、私が助からなければならんとして、参って来る信心になって来たらです。もうここで、金光大神あって神が世に出たと言われる様にです。いわゆる天地の親神様も、大坪総一郎あって、自分の可愛い氏子が助かる様になったと、言うならば、神も助かって行かれるのであり、又は氏子も助かって行くと言う。
 して見ると私は神様からの恩人と言われる程しのことになるのであり、皆さんも大坪総一郎という人は、私の家の恩人私の恩人と云う事になって来るのです。只どんなにおかげを頂いても、勿論それは言葉がちょっとおかしいですけれども、「金光大神」と言う意味と同じ事です。けれどもどんなに金光大神の取次を頂いてです。今申します様に、どう言うおかげを受けても、そのおかげは神からも又は氏子からも両方からの恩人と言った様な事にはならんですそう思ってます。
 もう大変なおかげを頂いて、おかげで助かってと言ってますけどもねそう云うおかげは段々薄うなって来るです。けれども自分自身が助かる為の信心を頂いて行くと云うか、鍛えて行くと云う事は、もうそれはそのままあなた自身の物ですから、助かると云う事は。ならこの助かりは、誰のおかげでか、親先生のおかげでと云う事になるのです。それはそのまま金光大神のおかげでと云う事と同じです。皆さんそんなふうに言わば感じられた事はないでしょうか。
 または感じられんならば、そ云う風に成程と思うてみて頂きたいと思うんです。子供のことを、例えば助かってない子供の事を見れば見る程にです。親としては願わなければおられません。その祈りが強烈であれば強烈である程です。私自身が愈々助からねばと云う事になって来なければです。本当の信心じゃないと思うです。例えば商売繁昌なら商売繁昌でも良いです。本気で商売繁昌を願う。願えば願って行く程、愈々私が力を受けなければならないなと云う事になって来るんです。
 ですから私が力を頂かなければならない。私が助からなければならないと云う事になったら、合楽と云う所はもうそれこそ、日に一遍とても出て来なければおられない所です。皆さんどうぞ皆さん自身一人一人がです。助かっておりますと言やそれまでですけども、より助からなければならない。より力を受けなければならないと云う事です。「金光大神の言う事に背かぬ様に」と云う事は。
 金光大神はもう口を酢うして此の事を説いておられると思うんです「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と云う事は、氏子信心して助かってくれと云う事、より力を受けてくれと云う事。助かると云う事。私が助かると云う事。願いは沢山持っています。だから願いは沢山さしてもらいます。さしてもらえばもらう程、愈々私が力を受けなければならないなと気付かせて頂く所から、私は愈々親先生は神様からも、私は喜んで頂く取次者と云う事であり、皆さんからも「親先生あって私がある」と。
 言うならば皆さんの恩人と言える事になって来る、そう云う事にならなければ本当の教会の繁盛とか、皆さんの繁昌になって来ないと思うです。もう兎に角私自身が助からなければ、たった此の位な事で心がゆらゆらする。此の位の事で腹が立つ此の位の事でもう心が乱れる。と云う時には尚更愈々自分の信心の至らなさを感じて、愈々自分の助かる事の為の精進をしなければいけません。愈々自分が助かる事の為の修行に取り組まなければいけません。愈々自分が助かる事の為に御理解を拝聴しなければいけません。
 昨日、安東さん達ご夫婦がお参りになりました。ご夫婦で言われるのに、もう最近思いますのに、一人息子の勇治君の事です。愈々神様の有難さが、もう様々な問題がある度びんに「親先生の言いなさる通りしとけば、お父さんお母さんやっぱり間違い無かばい」と言う様になったと言うておられます。それはどう云う事かと言うと、ならまあ安東さんの奥さんだって、ご主人だって同じですけれども、安東さんのご主人その人がです。もう自分自身が助かる事に一生懸命になっておられると云う事です。
 だからお父さんの助かって行っておる姿を見ると、もう合点せずにはおられない物がある訳です。そして安東さんが言われるのじゃない。兎に角親先生にお伺いをして見れと言う生き方なんです。私は親先生の言われる通りの事にして此の位に助かって来たんだから、あんたも、特に人事関係なんですけど、親先生の言われる通りにすると心が開けてくる。開けてくると、そこに今まで問題であったその問題が、問題でなくなって来る、解決して来ると言うおかげを言わば次々と頂いて行かれる内にです。
 言わば、親子三人の者が合楽あっての明光商事でありと言う、言うならば親先生は、明光商事の恩人であり、私共の恩人であると言う様な、まあ言葉を換えればそう云う事になるのです。昨日私と三人でお話しした事でした「安東さんここん所が、是からいよいよ繁昌の基礎になるとこですよ」と言うたんです。それは成程スムーズに商売も具合よう行っとるし、事業も繁盛しておると云う人も沢山ありますけれども、第一子供が付いて来んでんじゃないですか。第一家内が付いて来んじゃないですか。
 それで例えばもっともっと繁盛した暁の事を思うたら、実に危なくて危険でたまらない不安でたまらない。今はただおかげに幻惑されておりますからそれで良い様にあるけれども、本当の事を思うたらいつ崩れるか判らない様なおかげである事に気付くだろう。そういう意味で五年十年遅れたっていいですね。安東さんあなた方夫婦、親子三人がそう云う親先生の言いなさる事になって行けば間違いがない。それは親先生が言いなさる通りの事になれば間違いないと云う事はです。
 是はまだ勇治君の場合は其処迄行かんでしょうけれども、安東さん達ご夫婦の場合は、問題は私自身が助かると云う事なんです。焦点が段々置き換えられて行っておると言う感じが致します。最近の秋山さんの色んな問題に対する子供さん、また嫁さんとの関係においてもそうです「もう問題は私が助かるより外には道はない、私が助からなければね、生き生きとした言葉すらが出て来ないんだ」と秋山さんは言っておられますです。
 今まではそう云う風な例えば、生き生きした人の心が癒える様な、人の心に「本当にお母さんそうですね」と思うてくれる様な言葉が出らない、自分が助からなければ。昨日私がここを四時半か五時に下がりましたか、その後に古賀さん所の息子さん、是も一人息子です。洋一君が参って来たちゅうんです。もうこの頃から本人自身がもう大変な難儀な問題に取り組んで「もうお父さん僕はもう今の仕事やめる」と何回も言う程しの事があった。所が問題その物はね問題その物は一つも変わらない。難儀な問題を。
 所が最近は仕事の方にです。少し興味が出て来たから、その事は苦しいけれども、仕事の方に興味が出てきたと云う事で、まあようやく保てとります。保てれております。と言う意味の事を、上野先生が御取次したと云う事を、また私に夜の御祈念の時に言うております。そう云う働きと云う物はです。今古賀さん達夫婦がです。勿論おかげを受けなければならない問題が沢山ありますから、もうおかげを受けなければならんから、一生懸命お参りして来ておる内にです。
 「こりゃ私とお前が本気で助からなければ」と云う様な言葉はまだ私まだ聞いた事がありません。けれども本人達ご夫婦がです。そう云う風な所に気付かせて頂いておられるのじゃないだろうかと。先日は是は子供じゃなくて自分の親、両親の弧とである奥さんの。もう考えて見るなら、本当にあのう信心の無いとか、信心の薄い人達の考え方と云うのはどうにも仕方がないな、仕方がないねと云う様な状態でした。
 けれどもこちらが助かった心で、助かった物を持ってやらせて頂いて、こんがらがって行かなければならないその問題が、非常にスムーズにおかげを頂いて来たと云う事を昨日お届けしておられます。問題は、古賀さん達夫婦が助かれば子供も助かって行く道が開けて来よる、親も助かって行く道が開けようとしておるです。ですから今日はその皆さんは問題は、私が助かるより他に道はありませんとは私まだ聞いとらんです。
 安東さんからも、古賀さんからもまた秋山さんからも、けれども実際は、自分自身が助からなければ、今日の言葉を私の言葉を、皆さんが自分の物に持って来てです。ああそれはそう云う事だなあと思うたら、それだけにすっきり信心を置き換えられたらいいです。お父さん、私達は私達自身が助かる為に合楽に通いよるんだと云う事です。そして願いは一杯あるんです。親の事も子の事も言うなら。
 けれどもその親の事を子の事を一杯願う事が一杯あればる程により私達が助からなければならないなと云う事になって来る時に、合楽の御理解がですもう生き生きとして来るです生活の上に躍動して来るです。例えば皆さんの場合、「おかげおかげ」で参って来よんなさってもです。御理解を頂く度んびんに、本当に自分が助からなければと気付かれるだろうと思う。だから今日は、その所を私は焦点をおいて、「金光大神の言う事に背かぬ様に」と云う事はどう云う事か、それは金光大神その人もです。
 「人が助かる事さえ出来れば」と仰った。人が助かる事さえ出来る為には、愈々金光大神その人が、よりもっともっと、力と自分自身の助かりを願われたのではなかろうかと、是は私の信心から憶測する訳です。私自身そうです。沢山の人の御取次をさせて頂けば頂く程です。もうそれで済んだとは思われませんもの。御取次したけんもうそれで良いとは思いませんもの。愈々取次者としての力を頂くと云う事は、私自身がもう愈々以て助からなければならないな。
 子供達の言うなら目に余る様な姿を見て、是では子供は立ち行かん。是では子供は助からんと思えば思う程願わなければおられん。願えば願う程です。私が助からなければと言う事に成って来る出巣。そこで私が助かる事のために合楽通いをして居ると云う事になったら、もう愈々私と皆さんの間は、もう愈々密なる物になって来るでしょうね。それがおかげである場合、おかげ受けた時には。
 「親先生のおかげ」と言いよるけれども、おかげが頂けなかったら「もうそうに一生懸命参ったばってんおかげ頂ききらんじゃった」と言う。ねえ薄くなるでしょうが。信心は辞めんにしてもです。なんとはなしにただ継ながっておると云うだけです。本当に親先生は私の恩人だと云う事をはっきりです、思えたり、そう云う信心になって行く為には、皆さん自身が助かる事の為に合楽に通うて来てご覧なさい。もう絶対親先生は私達の恩人だと云う事になって来るです。
 そこから良いものが生まれて来る。安東さんの例を取ました。古賀さんの例を取ました。秋山さんの例をとりました。そのことがです。例えばなら、ご本人達から聞けばもっとそこは切実でしょうけれども、今日は私が言葉ではっきり申します様に、私が助からなければと言う純粋な物ではないと云う事。けれどもやはり、秋山さんが助かって行きよる。古賀さん達夫婦が助かって行きよる。安東さん達夫婦が助かって行きよる所からです。子も親も助かって行く道が開けておると言う事実をね。
 思う時にです。問題は、中心が、愈々助かって行かなければならないと云う事です。だから一つやっぱりそれを漠然とではなくて、それを本当にすっきりとその事だけにね、今日は私自身が助かる事の為にお参りをしたらです。助かる事の為に御理解頂かなければおられないです。しっかり。また助かる事の為にだったら、その教えの何処かをです。行じなければおられないです。一回よりも判らなかったら二回も三回も聞かなければおられないです。自分が助かる事の為に。
 段々自分以外の人の事、赤の他人の事までも祈れれる様になると云う事は、信心がそれだけ成長して行っておる姿です。けれどもそれが通り一遍の願いではなくて、本当に助かってもらわねばならないと思う時です。だからその願いと言うか祈りと云う物をもっともっと、だから強烈にして行かなければならないと云う事です。強烈にして行けば行く程にその難儀な姿子供たちの助かってない例えば姿、商売なら商売が繁盛してないなら、繁盛してないその様子と云う物を、見れば見る程に願わなければならない。
 願わなければおられない事になって来るとです。その願いというものが強烈になってくれば来る程、もう私が助かるより以外にないなあと云う事なのです。その私自身が助かると云う事がそのまままた、人が助かる事さえ出来ればと言う精神にも通ずる。「金光大神の言う事に背かぬ様に」と云う事は金光大神の言う事を聞かせて頂く事によって、私自身の心が開けて来る。私の心が助かって来る心の中に安らぎ・安心のそれが生まれて来る。だから金光大神の教えを愈々深く広く頂かなければおられない事になって来る。
 そう言う信心になった時もうそれこそ、切っても切れない仲と言うかね、それは神様と皆さんと言うだけではなくて皆さんと私の間にですね。切っても切れぬ深い尊い物が育って来るんだとこう思います。本当に金光大神を私の恩人と思えれると云う事は、本当に親先生を私の家の恩人私の恩人と言える様に成る事です。それは私自身が金光大神の教えを聞いて、親先生の御理解を拝聴してです。私が愈々助かって行くと云う事に焦点を置かれた時に、初めて私は金光大神の言う事を聞いたと云う事になるのじゃないかと思います。   どうぞ。